東京高等裁判所 昭和43年(行ケ)132号 判決 1977年1月27日
原告
フアルブウエルケ・ヘキスト・アクチエンゲゼルシヤフト・フオルマルス・マイステス・ルチウス・ウント・ブリユーニング
右代表者
ドクトル・フリードリツヒ・ベルクマン
同
ドクトル・ゲルハルト・イルミツシユ
右訴訟代理人弁理士
江崎光好
外二名
同弁護士
八掛俊彦
被告
特許庁長官
片山石郎
右指定代理人
米倉章
外二名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告のための附加期間を三〇日とする。
事実および理由
第一当事者の求めた裁判<省略>
第二争いない事実
一、特許庁における手続が経緯
原告は、昭和三七年三月二六日、西暦一九六一年(昭和三六年)三月二五日ドイツ連邦共和国にした特許出願に基く優先権を主張して、名称を「酢酸ビニルの製法」とする発明につき特許出願をしたが、昭和四〇年四月二〇日拒絶査定を受けた。そこで原告は同年八月七日審判の請求をし、同年審判第五一三七号事件として審理されたが、同四三年四月二四日「本件審判の請求は成り立たない。」旨の審決があり、この謄本は同年六月一二日出訴期間として三か月を附加する旨の決定とともに原告に送達された。
二、本願発明の要旨
(一) パラジウム塩の存在下で、〇度Cないし二五〇度Cの温度範囲においてエチレンと酢酸とを反応させて酢酸ビニルを製造するに際し、この反応を、分子状酸素または酸素含有ガスと反応条件下その原子価を可逆的に変化する金属塩からなるレドツクス系の存在下に行うことを特徴とする、酢酸ビニルの製法
(二) パラジウム塩の存在下で、〇度Cないし二五〇度Cの温度範囲においてエチレンと酢酸とを反応させて酢酸ビニルを製造するに際し、この反応を、分子状酸素または酸素含有ガスと反応条件下その原子価を可逆的に変化する金属塩からなるレドツクス系の存在下に行い、反応の間に生成した水を連続的に反応混合物から除去することを特徴とする、酢酸ビニルの製法
三、審決理由の要点
本願発明の要旨は前項のとおりである。ところで本願に添付されたドイツ連邦共和国出願明細書には定量的に記載した実施例がなく、発明の要旨を具体的に開示するに足りる事項が示されていないので、化学方法の発明としてこの発明は未完成と解するほかなく、完成された発明である本願明細書記載の発明とは同一性がない。したがつて優先権の主張はできない。
一方本願の先願発明である特願昭和三六年第一八七六五号(同年五月二七日出願、特許出願公告昭和四〇年第一一三六七号、同四二年六月二一日登録特許第四九六二一四号―以下「先願発明」という。)の発明の要旨はつぎのとおりである。「塩化パラジウム・塩化第二銅および(または)酢酸第二銅ならびに酢酸アルカリ塩の存在下で、無水または少量の水を含む液状または蒸気状の酢酸とエチレンおよび酸素とを、室温またはそれ以上の温度ならびに常圧またはそれ以上の圧力下に反応させることを特徴とする、エチレンより酢酸ビニルを製造する方法。」
そこで本願の第一番目の発明と先願発明とを対比してみると、両者はパラジウム塩の存在下でエチレンと酢酸とを反応させて酢酸ビニルを製造する点でも、さらにその反応を酸素の存在下で行う点でも一致する。また先願発明の塩化第二銅および酢酸第二銅は本願第一発明のレドツクス系化合物に内包されるものであるし、温度・圧力条件ならびに反応系における酢酸アルカリ塩の存在については表現上両者に差異はあるにしても、具体的な実施態様からみればその間に差異はない。そうすると両者はその発明の構成上実質的に同一と認められ、発明の目的および効果においても格別の差異はない。したがつて本願は特許法第三九条第一項により特許を受けることができない。
四、先願発明との同一性
先願発明の発明の要旨は、審決認定のとおりであり、本願各発明と実質的に同一である。
五、ドイツ連邦共和国特許出願の明細書の記載
(一) その記載には、具体的な反応成分の数値は示されていない。
(二) その記載から、当業者であれば目的とする発明が含んでいる反応を例えば別紙1、2のような化学方程式で表わすことができる。
(三)1 カルボン酸は溶剤としても使用されうることが述べられている。したがつてこの成分は当然理論量よりも過剰に使用される。
2 「未反応のガスは……再び循環的に使用されうる」と記載され循環系の反応として実施されることが示され、周知のように循環系の反応では化学量論的反応を行わなくてもよい。
六、理論的モル比と本願明細書記載のモル比
別紙1の方程式の分子量を計算すると別紙3のとおりであり、本願明細書記載の各実施例のモル比を計算すると別紙4のとおりである。
七、反応成分の過剰使用
一般に化学方程式は反応の理論的な基本的量関係を表わしているにすぎず、実際に反応を実施するに当つて、一方を過剰に使用することは化学技術者の常識である。
八、エチレンの爆発限界
下限が2.75容量パーセント、上限が28.60容量パーセントである。
九、発明の同一性について
優先権主張の特許出願において、わが国における当該出願にかかる発明が完成された発明であり、優先権証明書添付の発明が未完成発明であれば、両者は発明として実質的に同一性を有しない。
第三争点<省略>
第四証拠<省略>
第五裁判所の判断
一第一出願<〔註〕ドイツ国出願>の内容に対する審理の当否について
我が国に出願された第二出願について第一出願による優先権を主張することができるためには、第二出願の発明と実質的に同一と認められる発明が第一出願に記載されていることが必要であることはいうまでもない。
したがつて、この点を明らかにするために第一出願が果して発明として完成しているかどうかまで審査することは許されて然るべきであり、そのための審査が我が国の特許法によつて行われることは当然である。もとより、第一出願について登録が許されるかどうかは本国法によつて判断されるけれども、それとこれとは混同すべきではないのである。
審決が第一出願について発明の要旨が具体的に開示されているかどうかを我が国の特許法に基づいて判断していることは、もともと優先権の前提となる事実認定に属する事柄であつて、前述のとおり我が国の特許法によるべきであり、審判の範囲を逸脱したものとはいえず、この点に関して審決に何ら違法のかどはない。
二第一出願の発明の完成・未完成について
第一出願の特許請求の範囲の記載に第二出願に本願特許請求の範囲として記載された発明の構成要件が含まれているが、具体的な反応成分の数値がその明細書に示されていないこと、すなわち実施例の記載がないことは、当事者間に争いがない。
ところで、第一出願の明細書の記載から、当業者であれば目的とする発明が含んでいる反応を別紙1、2のような化学方程式で表わすことができることは当事者間に争いがない。
原告はこれを根拠として第一出願の発明が未完成であるとするのは誤りであると主張する。しかしながら、化学方程式は現実に起り得る化学反応を記号を用いて書きあらわしたもので、反応成分にどのような原子の組みかえ、すなわち原子の配列の変更がおこり、どのような分子が形成されるかを示すものである。分子は、原子がそれぞれの原子価によつて結合しているものであり、原子の価数は定まつているから、従来知られている反応を考慮すれば、化学反応を種々想定して、原料から所望の化合物を得るような過程を反応方程式ないし化学方程式として書くことは比較的容易である。しかし、このように想定しても、化学反応は現実に起るとは限らない。けだし、原料成分を混合することは人為的にできるが、その後の化学反応は自然法則によつて進行するから、原子の組みかえを人為的に行わせることはできないからである。
このように反応の化学方程式が示されても、果してそのとおり反応が進行するかどうかは、一般的には実際に実験して確認してみなければならないのであつて、化学が実験の科学といわれる所以もそこにある。したがつて化学反応の発明が完成したとするためには、たとえば公知化合物から公知の単純な反応でそれと類似の化合物を製造する方法のような予測可能な場合を除いて、一般的にはその化学反応の実在を裏付け、作用効果を確認しなければならないと考える。化学反応の実在を裏付け、その作用効果を確認するためには、実際にその反応を行なつてみなければならず、発明を記述する明細書には、かような実験が行われたことを証する資料が記載されなければならない。実施例はそのための最も適切な資料であり、必ずしもそれに限定されるわけではないが、少くともこれに代り得るものがあることが必要である。本件についてみると、<証拠>によれば、第一出願の明細書には、実施例はもとより、実施例に代り得るもの、すなわち反応の実在を裏付け、作用効果を確認したと認められる記載を見出すことができない。
原告は第一出願の明細書の記載から読みとれる前記化学方程式によつて示される反応体のモル比と第二出願各実施例のモル比とをくらべると大きな差異はないから、当業者であれば前記化学方程式から第二出願実施例のように実施することは容易であると主張する。
第二出願各実施例のモル比が別表4のとおりであることは当事者間に争いがなく、これらの実施例のモル比と第一出願の記載からも読みとれる本願発明の目的とする別表1の化学方程式によつて示される反応体のモル比との間には大きな距りが認められる。
原告はこの距りを埋めて、この化学方程式から容易に実施できる根拠として、(一)、成分の一方を過剰に使用することが化学常識である、(二)、溶剤として使用される場合は当然理論量より過剰に使用される、(三)、循環系の反応では化学量論的反応を行わなくてもよい、(四)、気体の混合物を使用する場合なるべく爆発範囲を避けるようにしなければならない、などの点を挙げる。しかしながら(一)、(二)、(三)の諸点は、いずれも当業者の一般的な常識であることは当事者間に争いがないが、極めて漠然とした条件であるから、このことによつて実施上の原料仕込の特定数値が教示されていることにはならない。また(四)の爆発範囲を避ける点については、なるべくならば避けた方がよいと考えられるが、当事者間に争いのない爆発範囲2.75容量パーセントから28.60容量パーセントの外であればよいことになるから、教示される範囲は極めて広範であつて、実施上の特定の数値を教示しているものとはいい難い。
以上の検討からすると、第一出願の目する発明は、別紙1、2の化学方程式が書ける内容がふくまれ、原告のあげる諸点があつたとしても、その記載だけでは直ちに追試することができず、これを実施例など実験で、もしくは理論的に解明した記載・資料がない以上、着想の段階にとどまつているとするか、少くとも開示不十分というほかはない。
発明について我が国の特許法はとりたてて完成・未完成の文言を使用していないけれども、産業上利用できる発明に対し独占的な権利を附与する法の性質上特許附与の要件として発明が技術的見地からみて実施可能なこと、つまりは完成されていることを前提とすることはいうまでもない。ところで、優先権の基礎となる第一出願に対するわが国における審査としては、補正等の手段が許されようもないので、本件のように実施上の具体的な裏付けを欠き、少くとも発明の開示が不十分であるか、それとも着想の段階にとどまつているか明かでない場合には、一括して未完成発明として取扱うことはあえて不当とはいえないと考える。
したがつて第一出願の記載から発明が未完成であると認定した審決には何ら誤りはない。そうしてわが国における当該出願にかかる発明が完成された発明であり、優先権証明書添付の発明が未完成発明であれば両者は発明として同一性を有しないことは当事者間に争いがないから、審決が第一出願によつて完成された発明である第二出願に対して優先権の主張を認めなかつた判断に違法のかどはない。
三結論
そうすると、本件審決には原告の主張するような判断の誤りはないから、原告の本訴請求は失当で、棄却せざるを得ない。よつて、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条民事訴訟法第八九条、上告のための附加期間の定めについて民事訴訟法第一五八条第二項を適用して、主文のとおり判決する。
(古関敏正 舟本信光 小酒禮)
(別紙 1)
(別紙 2)
(別紙 3)
(別紙 4)
例1
例2
例3
例4
原料
エチレン:酸素
容量比
2:1
2.3:1
3:1
3:1
エチレン:酢酸
量比
各例において酢酸は反応成分としてかつ溶媒として使用されているので,酢酸は過剰に使用されている。
生成物
酢酸ビニル
(PdCl21モルに対して)
時間
モル
時間
モル
時間
モル
時間
モル
4
0.06
3
5.7
2
8.2
2
6.8
8
0.54
7
8.5
4
15.3
5
13.1
12
0.87
10
9.5
8
26.2
8
18.2
16
1.06
16
11.4
11
23.2
24
14.3
15
27.1
触媒(Ⅰ)
塩化パラジウム
4.4g
0.025
1L中
Pd
0.235g
0.0023
1L中
0.55g
0.0031
1L中
0.55g
0.0031
触媒(Ⅱ)
酢酸第二鉄
23.3g
0.1
酢酸第二鋼
1L中
Cu
0.389g
0.0061
1L中
29.4g
0.162
1L中
29.4g
0.162
触媒(Ⅰ):触媒(Ⅱ)
モル比
1:4
1:2.7
1:52
1:52